地域の歴史に社会をみる
19世紀後半から20世紀は、日本社会が大きく変動した時代です。約250年続いた徳川幕藩体制が動揺?解体し、幕末維新変革期から文明開化期を迎えます。さらに日清?日露戦争などを契機とし、資本主義社会へと構造転換が進みました。このかんの社会変動を、地域社会における政治や文化、生活への着眼からとらえ返すことが、私の研究課題です。具体的には、長野県を主なフィールドとして、教育や医療などをめぐる地域社会の動向を追究しています。
明治初年、日本でも教育近代化が本格的にスタートします。「学制」(1872年)などにうながされ、全国で近代学校が設立されました。ただし明治政府は、財政が脆弱であったことから、設立の費用負担を地元住民に転嫁させていました。このこともあり、学校設立の過程には、地域ごとの事情や特徴が色濃く反映されることになりました。たとえば筑摩県(現在の長野県中南部および岐阜県東部)では、学校設立を担った人びとが、面白い動きをしています。彼らは、新しい学校がなぜ必要かを地域住民に説き、設立の資金集めに取り組んでいました。さらにこれら学校設立のための活動と同時並行で、新聞を発行したり、博覧会を開催したりしていました。つまり学校関係者が、地方メディアや文化イベントの運営者でもあったわけです。こうした状況のもと、学校には、現代とは質を異にする役割が期待されていました。すなわち黎明期の学校では、時に地域住民が集まり新聞の読み聞かせが行われ、また時に博覧会場として文物が展示されていました。学校は、新聞を読んだり博覧会が開かれたりする場でもあったわけです。
現在「学校」といえば、教員としての大人と、児童?生徒としての子どもばかりで構成される空間がイメージされがちではないでしょうか。地域史のなかの学校には、現在とは異なる学校の姿が「ありえた可能性」として豊かに示されています。学校の多彩な可能性を歴史学の方法で再構成し、ひとまず一冊の書物にその成果をまとめました。
近現代の日本で医療の普及を支えたのは、主に私立の病院(開業医)でした。一方で公立病院は、明治なかばまでは全国各地で叢生したものの、地方財政の脆弱さなどのため多くが衰退しました。小規模の開業医に頼る構造は、2020年より続くパンデミックにともなう「医療崩壊」の歴史的な遠因ともみられています。
こうした近現代日本医療史の傾向とは異質な経過を辿った病院の歴史が、長野県諏訪郡から見出されました。当地では、明治前期に発足した公立病院が、諏訪赤十字病院として現在まで存続しています。もとより運営主体は一貫しておらず、地域住民から郡行政、日本赤十字社へと変遷しています。設立時の立地や資金負担をめぐる交渉過程などから、運営主体が交替する経緯を検証する。そこからは、「公立」の歴史的な具体相が浮かび上がるのではないか。こうした問題関心から、「地域社会で病院を持続させること」の歴史を復元しました。
私の研究は、地方(ぢかた)文書の調査?整理作業が不可欠です。公的な行政記録や私的な日記、教育?文化活動に関わる文書など、未だ手つかずのまま地域に所在する史料群は少なくありません。これらの目録を作成し、保存する仕事を、複数の研究者との共同で進めています。
グローバル資本主義の進展は、地域あるいは社会の共同性を掘り崩す事態でもあります。そのなかで大学ふくめさまざまなセクターが、「稼ぐ」ことばかり求められ、競争に駆り立てられています。社会の貧しさや衰えを象徴するようで、持続可能とはとうてい思われません。かかる状況に置かれた私たちの社会を、どのようにして組み換えていくことができるのか。その方途を探る手がかりとして、地域社会の歴史から共同性の動態を掘り起こしています。
プロフィール
塩原佳典
博士(教育学)。専門は日本教育史。信州を主なフィールドとして、19~20世紀の地域社会史を研究している。日本学術振興会特別研究員、京都外国語大学講師、畿央大学准教授を経て、2023年より新潟大学教育学部准教授。
※記事の内容、プロフィール等は2024年3月時点のものです。