神楽はタマフリではなかった!?

教員コラム(若手研究者) 2025.01.06
中本真人 人文学部 准教授

神楽とは、何でしょうか。

学生時代、私は大学の講義で「神楽はタマフリです」と教わった記憶があります。タマフリとは、活力を失った魂を再生させたり、あるいは逆に鎮めたりする儀式のことで、鎮魂とも呼ばれます。現在の神楽の多くが冬至の時期に行われるのも、太陽の復活を祈り、魂の再生を図るためと説明されてきました。

現在でも皇居では、毎年12月中旬に賢所御神楽(かしこどころみかぐら)という宮中祭祀が催されます。賢所とは、皇室の祖先である天照大神を祀った神殿です。この御神楽の夜は、賢所の前庭に庭火(にわび)が焚かれます。そして人長(にんじょう)と呼ばれる唯一の舞人を中心に、宮内庁式部職楽部の職員が歌舞を神に奉納します。その歌謡は、古くから神楽歌(かぐらうた)が用いられてきました。

このように神楽というと、神の前で、神に奉納する儀式というイメージがあります。しかし歴史的にみると、もともと神楽は神前で行う儀式ではありませんでした。

賀茂臨時祭の還立の御神楽(国立国会図書館デジタルコレクション『年中行事絵巻』より)賀茂臨時祭の還立の御神楽(国立国会図書館デジタルコレクション『年中行事絵巻』より)

平安時代の9世紀末に始まった賀茂臨時祭(かものりんじさい)という、旧暦11月の行事を例にみていきましょう。この祭では、天皇が下鴨神社と上賀茂神社に勅使を派遣し、神々に神馬と東遊(あずまあそび)という歌舞を奉納しました。天皇は内裏に留まりましたが、勅使の派遣にあたっては、御禊(ごけい)を行って身を清めました。早朝に内裏を出発した勅使、舞人、陪従(べいじゅう)は、平安京の外の神社を2つも回りますので、内裏に戻ってくるころにはもう深夜です。

勅使一行が内裏に帰還すると、天皇は彼らに酒宴を下賜しました。この宴は還立(かえりだち)と呼ばれます。還立は、無事に祭が終わった謝礼と慰労の目的で行われますので、現在の打ち上げ会に似ているでしょうか。実は、この場で行われるものが御神楽なのです。場所は天皇のご在所である清涼殿(せいりょうでん)の前庭ですので、もちろん神の前ではありません。

この還立の御神楽の歴史を調べていくと、神楽歌の奏楽だけではなく、古くは倭舞(やまとまい)という歌舞も行われていたことが判りました。倭舞は、古い時代には解斎、つまり斎戒を解く目的で奏される芸能でした。その倭舞が奏されたということは、還立の御神楽の目的は慰労だけでなく、解斎も含まれていたことになります。

中本真人著『内侍所御神楽と歌謡』武蔵野書院、2020中本真人著『内侍所御神楽と歌謡』武蔵野書院、2020

そもそも神事に関与する人々は、天皇も含めて精進潔斎をしなければなりません。そして斎戒の期間中は、身の穢れになるような行為を慎むことが求められました。斎戒中は、生活上の不自由もともないます。そこで祭が終われば、自由な日常生活に復帰するためにも、斎戒を解く儀式が必要でした。還立の御神楽では、倭舞を奏して解斎を行い、賀茂臨時祭が終わったことを全員が確認し、共有したのです。

このようにもともとは解斎の目的で行われた御神楽は、次第に神事の性格を強めていきました。さらに行事の一部に過ぎなかった御神楽が、年中行事として独立していったのです。賢所御神楽の前身である内侍所御神楽が成立したのは、11世紀の初めでした。このころには、冒頭に述べたような神楽がタマフリの性格を帯びていたと考えられています。

プロフィール

中本真人

人文学部 准教授

博士(文学)。専門は芸能論。特に宮廷の御神楽を中心とする古代中世芸能史について研究している。日本学術振興会特別研究員(PD)を経て、2014年から新潟大学人文学部准教授。また人文学部附置越佐?新潟学推進センター長として、佐渡市教育委員会との連携協定事業にも取り組む。

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※記事の内容、プロフィール等は2025年1月時点のものです。

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