狩猟採集民の「括弧入れ」
若手研究者コラム「暮らしに寄り添うひらめきのカケラ」
アフリカ中部、熱帯雨林が広がるカメルーン共和国東南部で、狩猟採集民バカ(Baka)?ピグミー(以下、「バカ」とする)の子どもの学びをめぐる人類学的フィールドワークをおこなっています。手に入れたものはみなで分け合い、個々の成員が原則的に対等であるとする狩猟採集社会を対象にした私の研究関心は、どのようにして子どもが自律を学ぶのか、です。他者からの制約を受けることなく、自分の意思にしたがって生活する。そうした個人の独立性は、どのようにして学ばれるのか、に注目しています。 狩猟採集民の養育者たちはこれまで、「自律や平等主義に価値を置くために、子どもにとって何が最良かを考えたり、感じようとしたりはしない。また、子どもの学習に直接関わったり、介入したがったりもしない」、などと言われてきました。では、大人は子どもを放任しているのか。フィールドワークを通して私が見出したのは、単なる放任ではなく、さりげない言葉かけの技術、でした。 たとえば、子どもの発話のくりかえし。狩猟採集活動中に、子どもが木の枝に採集物を見つけるとか、珍しい動物行動を観察するといったときに、大人は子どもの発話をくりかえしながら、真剣に耳を傾けます。
『教示の不在 カメルーン狩猟採集社会における「教えない教育」』(明石書店、2021)
私は彼らのこうした技術を、カウンセリングにおける傾聴に重ねます。相手の言葉を肯定するわけでも、否定するわけでもない。聞き手は何らの判断もせず、ただ発話を聞く。臨床心理学者で日本のカウンセリングの第一人者である河合隼雄氏は、これを「括弧に入れる」と表現しました。熱帯雨林では常に、予測のできない出来事が起きます。森のすべてを理解することなど大人にもできません。大人たちによる子ども発話のくりかえしは、教育的意図をもって、子どもに「あえて教えない」ための教育技法というよりも、「私でも知らない現実が、この森にはまだあるかもしれない」ことへの感受性の高さの表れであるように思います。なるほど、これは教育には見えません。 ところで、私が担当する文化人類学の授業では、受講者たちに体験型異文化理解ワークショップを作ってもらっています。ここでは詳しく触れませんが、私は現在、自分のフィールドワーク経験を活かして、国内児童と保護者を対象に、世界の文化を体験してもらうワークショップを仲間とともに主催しています。ワークショップとは、一方的な知識伝達がおこなわれる講義の場ではなく、あるテーマをもとに集まった参加者同士が学びあう場、をいいます。日本のワークショップの第一人者である中野民夫氏が、著書の中でこのような言葉を引いています。「人がどのように生きていくかという根源的な問いかけには、権威ある解答や正しい答えなど存在しない。そこにいる誰もが、適切な問いをもつ教師であり、魅力的な答えを生み出す生徒である」。私は、狩猟採集民の大人たちこそ、このことをよく知っているのではないか、と思えてなりません。ワークショップは私達にとってはたしかに、特殊な非日常空間ですが、狩猟採集民はそれを日常の学びの場で実践しているのでしょう。その人の生き方を育む学びに権威者などいません。
狩猟で獲れた獲物の分配について話し合う参加者(ワークショップの一場面)
私はバカの人に会わなければ、このことを実感できなかったように思います。学生と話をしていると(いや、「社会人」でもそうなのですが)、「私は流されるままに生きてきたので、自分で物事を決められない」、という言葉をときどき耳にします。私も昔はそうでした。しかしそうした自己肯定感の剥落に、大学を含め、学校教育が一役買ってしまっているとしたら、そんな悲しいことはありません。何のために学ぶのでしょうか。私はここに不安と焦りを覚えます。そのことが、私をはるか遠くのアフリカに足を運ばせた理由なのだと思います。日本の教育や学びに足りないものは何か、引き続き狩猟採集民の彼らから学びたいと思います。
プロフィール
園田浩司
博士(地域研究)。専門は文化人類学。カメルーン狩猟採集民バカの子ども達の学びについて研究している。京都大学アフリカ地域研究資料センター機関研究員を経て2022年から新潟大学人文学部講師。実践研究グループ「マナラボ 環境と平和の学びデザイン」のサイエンス?コミュニケーターとして、世界の文化を体験的に学ぶワークショップを開催している。
※記事の内容、プロフィール等は2023年1月時点のものです。